2016年5月16日月曜日

鳴かず飛ばず 語源

「鳴かず飛ばず」の由来・語源



■元々の意味
将来の活躍に備えて行いを控え、機会を待っているさま

■昨今の意味
何の活躍もしないでいるさまという意味で使われる

■由来
楚の第6代の王、荘王(そうおう)に由来する

荘王(そうおう)は全く政治を見ず、日夜宴席を張り、諫言する者は全て誅殺すると宣言した。家臣達は呆れ返ったものの諫言も出来ずに見守っていたが、3年目に伍挙が「謎かけをしたいと思います。ある鳥が3年の間、全く飛ばず、全く鳴きませんでした。この鳥の名は何と言うのでしょうか?」と言い、荘王は「その鳥は一旦飛び立てば天まで届き、一旦鳴けば、人を驚かせるだろう。お前の言いたい事は解っている。下がれ」と言った。その後も淫蕩に耽ったが、太夫蘇従が死を恐れずに諌めてきた。荘王は気だるげに「諫言すれば死罪というのは知っているな」と問うたが、蘇従は「我が君の目を覚まさせることができるならば、本望です」と答えたので、これを期に荘王はそれまでの仮痴不癲を解いた。
荘王は3年間、愚かな振りをする事で家臣の人物を見定めていたのである。悪臣を数百人誅殺し、目を付けておいた者を新たに数百人登用して、伍挙と蘇従に国政を取らせた。民衆の人気は一気に高まり、国力も大きく増大。楚は周辺諸国を脅かす存在となった

この故事からじっと機会を待つ状態の事を「鳴かず飛ばず」と言うようになった


■荘王(そうおう)略歴
? - 紀元前591年】在位:(紀元前614-紀元前591年)は中国春秋時代の楚の第6代の王。姓は羋、氏は熊、諱は侶、または旅、諡は荘。楚の歴代君主の中でも最高の名君とされ、春秋五覇の一人に数えられる。成王員(春秋五覇の一人とされる)の孫で、暴君だった商臣(穆王)の嫡子。共王審の父


楚(そ)
【? - 紀元前223年】中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は丹陽(ただし、名前が同じだけで場所は何度か変わっている)。楚の成立に関しては、漢民族の母体となった広義の黄河文明に属する諸族が移住して成立したとする北来説と、それとは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説がある。楚の成立に関してはさまざまな仮説があるものの、いまだに定見も有力説も定まっておらず、民衆および支配層がいかなる民族であったのかは解っていない

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